あおやぎ珈琲

猫とコーヒーと物語のブログ

キャラ疲れの時代

キャラとか、自分の気持ちとか、自分の身体について少し考えました。

雑誌テレビブロス(*)で、タレントの光浦靖子(みつうらやすこ)さんが、自分のキャラが心もとないという読者の相談に対して、

前は自分は不幸だということが、意見を自由に言える免罪符みたいなところがあったけど、今は幸せそうな人がいい、性格がよく愛されるほうがいいという風潮もある。かと思えば、その幸せそうな人が一度間違いを起こせば死ぬほどたたかれるのを見ると、もう何がいいのか分からない。どうすればいいの、時代の流れについていけない! 本当に! (内容要約)

という内容を述べていらっしゃいました。その後、

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あのね、キャラクターなんて決めないほうがいい。時間に比例して、逃げ出せなくなってゆくから。日々コロコロ変わり、つかみどころのない感じにしといたほうが楽よ。

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という、とてつもなく心に響く言葉を読者に投げつけるのですが、わたしは、テレビで活躍しているタレントさんでもこんなふうに思ってるんだなあ、と思ったのです。

光浦さんのいう、最近幸せそうな人のがいいみたい、というのはわたしもなんとなく感じるところです。

というよりも、「自虐」というのが最近しっくりこなくなった気がします。

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わたしも自分自身を卑下して考えがちなのですが、あるときとても自分を卑下して「自虐」する人と話したとき、その自虐ぶりに面白くて笑うのですが、こころのどこかで「ああ、この人をこのままにしてはいけない」という気持ちが湧くのを感じました。

そのときわたしは、自虐、というのは、なんだかお互いの残虐性を引き出し合って、そして笑い合っているような恐ろしさがあるな、と気づいたのです。

自分をおとしめて笑いにしているようで、話すほうも聞くほうも少しずつ傷ついているのです。

人の気持ちってあてにならないと思います。もちろん自分の気持ちもあてになりません。

以前、簡単な手術をしたことがあるのですが、そのとき、まわりの心配をよそにわたしは「大丈夫。全然、平気」と言っていました。そして、自分もほんとうに「平気」だと思っていたのです。だって、全身麻酔はするけど、時間も短いし、簡単な手術、と聞いていましたから。回復も順調で、すぐに元気になりました。でも、しばらくたって夫から「寝入りばなに、うなされてるよ」と言われたのです。

わたしはびっくりしました。自分が大丈夫だと思っていたのに、大丈夫じゃない反応が出ているとは…。「うなされる」なんて、少女マンガの登場人物みたいな苦しみかたじゃないですか。その後、自分でも眠りにおちるまぎわの薄い意識のなかで、うー、うーとうなっている自分の声を聞いたこともあり、やっぱり負担だったんだなあと思ったのです。

こころと身体が、ちぐはぐになるときってあるってことです。

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だから、どうなのかっていう正解はわたしにはわかりません。けれど、自分で思い込んでいる自分、あるいはこう思われたいという自分(キャラ)と、自分の気持ち、自分の身体の感覚をなるべく同じにしていったほうがいいんじゃないかなあと思うのです。

いじられて喜ぶキャラとか、自虐のキャラとか、そういう少し不自然なものに自分を押し込めるのはどうかと思います。もちろんね、それが楽しいという人はいます。それこそが自分という人はいます。でも、そんなに多くないんじゃないかな。

ほんとうに、光浦さんのいうとおり。キャラクターなんて決めないほうがいいのです。日々コロコロ変わり、つかみどころのない感じにしといたほうがいいっていうのは、自分のこころと身体に素直に向き合ってると、自然とそうなるのではないのかな、と思うのです。

そもそも、自分がどう思っているか、どう感じているかがわかりにくい時代なのかもしれないな、と思う今日この頃です。

今日は、これでおしまい。

(*)TVBros.平成25年7月20日号(東京ニュース通信社)「脈アリ? 脈ナシ? 傷なめクラブ/光浦靖子」による