針がお亡くなりになりました
つくろいものをしていたら、針がぽきんと折れました。
折れ曲がったんじゃありません。
ぽっきりふたつに折れてしまったんです。
厚い布をぬっていて、ちょっと無理に押し込んだら、折れました。
その重い感触。
一本しかない針が折れて、しくしく泣いている娘さんの姿が頭に浮かびました。
こういうことが起こるときは、たいていその前に信号のようなものを受け取ります。
これ以上はまずい、という青い電気の刺激のような。
それを越えると、事故や失敗が起こります。
無理に針を押し込んだとき、わたしの気持ちにはその信号を突っ切るような走るような乱暴さ、無神経さがあったのです。
買えない値段のものじゃありません。
でも、針を折ってしまったという出来事は、わたしにちょっとした衝撃をもたらしました。
曲がったことはあるけど、折れたことはないという油断。
柔らかいすべての物に対して強者だという幻想。
針を折るという失敗の歴史につらなった驚き。
折れた瞬間、針とわたしの時間が止まりました。
しかしながら、起こったことには対処をしなくちゃいけません。
針供養というのがありますから、それで供養をするべきか、はたまた危険がないように工夫して燃えないゴミに出すべきか。
供養するべきものを供養しないと、いかにも不幸に見舞われそうです。
だいたい先人がこうしなさいと言うことをおろそかにする人は、何も失っていないように見えて、ほんとはちょっと光を失うのです。
針供養は、12月8日か2月8日に寺や神社で行われ、豆腐やこんにゃくなどに折れた針を刺して供養し、裁縫(さいほう)の上達を願う行事、なのだそうです。
供養なのに裁縫の上達も願うとは。こういう、主役がよくわからないものって多いですね。針を悼(いた)むのと裁縫の上達を願うのは、分けたほうが針も喜びそうだけど。
いやいや、先人の言うことは、おろそかにしちゃいけません。
針が喜ぶかわかりませんが、心を込めて供養したいと思います。
今日は、これでおしまい。
