あおやぎ珈琲

猫とコーヒーと物語のブログ

針がお亡くなりになりました

つくろいものをしていたら、針がぽきんと折れました。 折れ曲がったんじゃありません。 ぽっきりふたつに折れてしまったんです。  厚い布をぬっていて、ちょっと無理に押し込んだら、折れました。 その重い感触。 一本しかない針が折れて、しくしく泣いている娘さんの姿が頭に浮かびました。  こういうことが起こるときは、たいていその前に信号のようなものを受け取ります。 これ以上はまずい、という青い電気の刺激のような。 それを越えると、事故や失敗が起こります。 無理に針を押し込んだとき、わたしの気持ちにはその信号を突っ切るような走るような乱暴さ、無神経さがあったのです。  買えない値段のものじゃありません。 でも、針を折ってしまったという出来事は、わたしにちょっとした衝撃をもたらしました。 曲がったことはあるけど、折れたことはないという油断。 柔らかいすべての物に対して強者だという幻想。 針を折るという失敗の歴史につらなった驚き。 折れた瞬間、針とわたしの時間が止まりました。  yuki.jpg しかしながら、起こったことには対処をしなくちゃいけません。 針供養というのがありますから、それで供養をするべきか、はたまた危険がないように工夫して燃えないゴミに出すべきか。 供養するべきものを供養しないと、いかにも不幸に見舞われそうです。 だいたい先人がこうしなさいと言うことをおろそかにする人は、何も失っていないように見えて、ほんとはちょっと光を失うのです。  針供養は、12月8日か2月8日に寺や神社で行われ、豆腐やこんにゃくなどに折れた針を刺して供養し、裁縫(さいほう)の上達を願う行事、なのだそうです。 供養なのに裁縫の上達も願うとは。こういう、主役がよくわからないものって多いですね。針を悼(いた)むのと裁縫の上達を願うのは、分けたほうが針も喜びそうだけど。 いやいや、先人の言うことは、おろそかにしちゃいけません。 針が喜ぶかわかりませんが、心を込めて供養したいと思います。  今日は、これでおしまい。