あおやぎ珈琲

猫とコーヒーと物語のブログ

のうぜんの花

「のうぜんの水を抱きて落ちにけり」
(のうぜんのみずをいだきておちにけり)
昨年の句会で、こんな俳句を出しました。
ノウゼンカズラは、六月ごろから咲き始める夏の花です。垂れた茎にたくさんのオレンジ色の花をつけます。
はっとするような花の色には、少々異国のふぜいがただよいます。
このノウゼンカズラ、咲き始めると次々と花が開いては落ちていきます。落ちた花をちりとりに集めて、振り返ったら新たに2、3片が落ちているという具合に、きりがないほど、次から次へ落ちるのです。
散る花というと、しおれた花を思い浮かべますが、ノウゼンカズラは、なぜかみずみずしいまま落ちます。生きたままに、といってもいいかもしれません。次々に花をつけるので、おしげもなく、花が散っていくのです。
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朝には、どっさりと花が落ちています。これをほうきでかき集めますと、みずみずしいものですから、水をかきあつめているような手ごたえがあります。
それで、初めに挙げた俳句をよんだのでした。
句会では、一人の方がこの句を取ってくださったのでした。句会では、回し読みした俳句の中から気に入ったものをいくつか選びます。選ぶことを「取る」あるいは「いただく」などと言い表します。
ノウゼンカズラが、咲いている姿のまま花を落とすのを『水を抱いて』なんて表現したのがいい」
と言っていただきましたが、
ノウゼンカズラらしくない」
とおっしゃった方もありました。この方によると、ノウゼンカズラの花が落ちているのは、やっぱりしぼんだイメージがするそうです。
俳句は「写実」が大事といいますが、俳句をやっていると、「ありのままを写し取ること」よりも、「ありありと読み手の頭の中に再現すること」のほうが大事なのかなあ、と思ってきます。
でも、そうすると、実際に畑仕事をする人が、自分が見たものや感じたものを写実しても、畑仕事をしたことがない人には伝わらないということも出てくるでしょう。
伝わらないもどかしさというのが出てきますが、だからと言って、伝わるものだけよんでいるのも、つまらないという気がします。
写真家の土門拳(どもんけん)さんが、自分と自分らしいということは違う、と書いてらっしゃったことがありましたが、俳句はなんだか、「らしい」ことを表現することを求められているようにも感じます。と思って、「らしい」俳句をつくると、「陳腐だ」と言われます。聖書に「針の穴にラクダを通す」という表現がありますが、力のある俳句をつくるのは、まさにこんな感じです。
長々書きましたが、要するに、わたしは俳句の世界にちょっとつかれているのです。いい俳句とそうでない俳句に分けたり、深い俳句とそうでない俳句に分けたり。うまい人とそうでない人に分けたり。そういうことにもつかれてしまったのです。
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わたしは、俳句は星みたいなものだと思っています。過去もたくさん生まれ、今も、未来もたくさん生まれるものです。それでいいなと思います。生まれるものを、全部愛でたらいいじゃないというのが、わたしの俳句のスタンスです。
今は足が止まってしまいましたが、また、俳句のことを好きになって、歩き出せたらいいな~と思っています。
今日は、これでおしまい。