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猫とコーヒーと物語のブログ

「父・萩原朔太郎」を読む

「父・萩原朔太郎という本を読んでいます。詩人の萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)のことを回想した娘・萩原葉子(はぎわらようこ)さんのエッセイ集です。 萩原朔太郎といえば、わたしは、稲垣足穂(いながきたるほ)のエッセイにあるエピソードを思い出します。 ある晩、朔太郎は「室生犀星(むろうさいせい)は妻と毎晩夫婦の営みがあるらしい」ということを酒場で耳にはさみ、すぐに犀星の家に赴きます。朔太郎は、生垣の外から「犀星、おまえ、いかん、いかんぞ。毎晩夫婦の営みがあるらしいじゃないか。それは、いかんぞ」と大声で叫びます。出てきた犀星は、近所迷惑と思ったのか、大きな声でひと声「帰れ」と怒鳴り、朔太郎はすごすごと帰っていったといいます。本当のことかどうか分からないけど、なかなか印象深いエピソードです。わたしはこのくだりを読んだとき、稲垣足穂は、室生犀星のことを「大人」だと思い、萩原朔太郎のことを「子供」だと思っていたんだなあ、と感じたのでした。 take.jpg さてさて、人から見て多分に子供っぽい人を「父」にもつと、どうなるのでしょう。 朔太郎は、やはり娘の目から見ても子供っぽさが全開だったようです。 食事のときにご飯をぽろぽろこぼしてしまう、飲むとそれがいっそうひどくなる、無頓着に女物の下駄で出かけてしまう、釘ひとつ打てないのに、手品に夢中になって赤い玉を指ではさんで器用に得意げに回している…。 そして、子供っぽさとは別に、朔太郎の欠けたところもよく観察してあります。 臆病さや正体なく酔う姿、人前で緊張して失敗するさま、その様子を葉子さん自身も少し傷つきながら述懐しているのです。 朔太郎が大人らしく、そつなくふるまってくれたほうが、娘としてはずっと楽だったでしょう。 父親の欠けたところやうまくいかないところを、自分のことように感じてはらはらしたり、くやしがったり、心配したりする姿は、せつなく映ります。 さらには、朔太郎は離婚をしていますから、母と離れて暮らしていた葉子さんが、「父もいなくなってしまうのではないか」という不安を抱えていて、父親の身体の具合の悪さを敏感に感じ取るなど、不安にさせるもの、恐怖を感じさせるものに強い感受性をもっていたのがわかります。 scotch.jpg 苦渋に満ちた生きざまが連ねてありますが、朔太郎が人々にかける言葉はいつもやわらかく、愛嬌のある感じです。 「灰ほどきれいなものはないのだよ、おっかさん」 「葉子には男の子の帽子の方が似合うんだよ」 など、場面にぴたっと合った言葉ともいえず、気が利いているともいえない言葉だけれど、どれも率直で好感がもてる言葉です。 今日は、これでおしまい。