宮沢賢治の背中に生えた羽根
宮沢賢治(みやざわけんじ)の作品を読み返しています。
彼の作品に特徴的といわれている擬態語・擬声語に注目して読んでいます。
読みながら、気づいたことを、ちょこちょこと。
01 やまなし
・カニの親子の話。子どものカニが、川に突然カワセミが飛び込んでくるのをおそれたり
・川に落ちた「やまなし」をカワセミと思っておびえたり
・でも、お父さんがやさしく見守ってるから、だいじょうぶ
・全体的に幻想的
・擬態語・擬声語もやわらかく全体をつつみこむ
02 銀河鉄道の夜
・前半…あれ? 擬態語・擬声語があんまり出てこない
・ジョバンニが授業で先生の質問にうまく答えられない ⇒ 活字屋で活字を拾う ⇒ お母さんのため牛乳を取りに行く ⇒ ザネリにからかわれる あたりまでは、擬態語・擬声語は少々あるものの、テンション低め
・ジョバンニが草原に寝転がって夜空を見上げ、銀河ステーション、という言葉を聞いたところから擬声語・擬態語がさく裂しだす
・でも、幻想の世界だけ擬声語・擬態語が使われているというわけではなく、ジョバンニが星の本を眺めるところ、ジョバンニの心にときどき浮かぶ心象風景などでも、ちらちら出てくる。
・どうも、現実⇒テンション低め、幻想・星の世界⇒テンション高め となっているらしい。
03 風の又三郎
・「風の又三郎」でも、学校の日常のシーンをえがいているときには、擬態語・擬声語は少ない
・又三郎が本領を発揮するシーンでは、擬態語・擬声語がさく裂
宮沢賢治は、たしかに擬態語・擬声語を多用しているけど、特に幻想的な場面に多用しているみたい。
つまり、擬態語・擬声語は、賢治が幻想の世界に飛び上がるための、背中に生えた羽根。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、天使をえがくとき、物理的に飛び上がることが可能なサイズの羽根をかいたといわれているけど、賢治も同じ。
幻想の世界に飛び上がれるように、その擬態語・擬声語のエネルギーがものすごい。
ただ、これだけを見て、賢治が 現実⇒輝いていない、幻想⇒あこがれ、輝いている、と思っていた、とは思わない。
賢治は、幻想の世界へは行ったり来たりできるんだよ、と言っているように感じる。
なぜなら、賢治は法華経(ほけきょう)を開いてはドキドキしていたらしいけれど、現実もしっかり生きていたみたいだから。
賢治の本を読み返してみて、そんなことを思いました。
今日は、これでおしまい。